改革開放40年、日本語教育が歩んできた道

改革開放40年、日本語教育が歩んできた道

2018-11-26    11'31''

主播: zhudanyang88

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介绍:
「改革開放」は1978年12年に開かれた中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議で提起された政策です。以来、「請負制」や「自主経営権」、「経済特区」など、新しい政策がどんどん打ち出されました。経済、政治、文化の変化に伴い、日常の暮らしにも大きな変化が起こりました。物資の乏しい時代に行われていた配給制度が終わり、食べ物に困らない時代に突入しました。教育の面では、およそ十年間にわたって中止されていた全国大学統一試験が、1977年末と翌年の夏に再開されたことは大きな出来事でした。しかし、日本語を含めた外国語科目が正常になるまでには、しばらくの時間を用しました。 今日のこの時間は、改革開放40年間の日本語教育についてお伝えします。 1977年12月と翌年8月に再開された大学試験には、日本語を含めた外国語も組まれましたが、対応が整っていなかったため、外国語大学または外国語専攻を選んだ受験生を除いて、外国語の点数が考慮されることはありませんでした。その後、1979年からは10%の加算をはじめるようになり、それが年々増え、4年後の1983年からは100%加算されるようになりました。 1979年3月には、教育部が外国語教育に関する「意見」を発表し、各地方、各学校がそれぞれの状況に応じて外国語教育を実施することを求めました。その内容には、主な任務としては英語に力を入れ、日本語、フランス語、ドイツ語、ロシア語などその他の言語教育にも配慮の必要があることが盛り込まれています。この「意見」は国家レベルでは初の日本語教育に関する指示となりました。この段階において、東北地区の遼寧省、吉林省、黒竜江省や、内蒙古自治区、新疆ウイグル自治区、北京、天津、上海などでは、中学校で日本語の科目が設けられました。80年代初頭には、中学校における日本語教育はピークを迎えます。遼寧省において日本語科目を設ける中学校を例にあげますと、1981年には1006校で最多を記録しました。その背景には、英語のできる人材が少ないのに対して、ロシア語と日本語ができる人材が多いという状態がありました。しかし、その後年々減っていき、1986年にほぼ半数の685校に減少し、1998年になると、全国で数えても398校、先生が1400人、学生数が11万人となります。また、外国語として大学で日本語を選択する受験生の数も1981年が最も多い約9000人だったのに対して、1989年にはおよそ5100人に減少してしまいました。1986年になると、義務教育段階における日本語教育が整い、日本語は大学でも必修科目としてのほか、第二外国語としても設けらるようになりました。 ところで、日本語教師の不足問題は、義務教育をはじめ、大学でも際立っていました。この問題を緩和するため、中日政府が結んだ文化交流協定に基づき、1980年に「全国日本語教師養成クラス」が立ち上げられました。以来5年間で、日本からは合わせて研究者、学者91人が派遣され、600人の日本語教師を育てました。現在、これらの多くは、日本語教育界や両国の文化交流界の中堅として活躍しています。この事業は当時の日本の大平正芳元外相の提案によって始めたことから、「大平班」と呼ばれ親しまれています。今このクラスは、北京日本学研究センターとして日本語教育や日本研究の人材育成に貢献し続けています。 全国統一の日本語テキストは、1980年代前半までありませんでした。1984年に中学校向けのもの、1985年には高校向けのものがそれぞれ完成して使用され、約16万人の学生が使用したと言われています。編集を担当したのは、全国の小中学校の統一テキストの発行を担当する人民教育出版社でした。 一方、学校以外に目を向けると、一般社会では外国語ブームが沸き起こり、社会人向けの各種のテレビ講座とラジオ講座が始まりました。そのため、町の中ではトランジスタラジオを持って日本語を勉強する姿が目立ちました。その際に使用されるテキストはさまざまで、中には日本側が編集したテキストもありました。吉田弥寿夫などが編集した「新しい日本語」とNHKが編集したカラー版の「やさしい日本語」、大学日本語専攻向けには東京外国語大学が編集した「日本語」が使われていました。特に、「やさしい日本語」は手紙を出して申し込めば、無料でもらえることが珍しがられていました。とは言え、1980年代には、中国人にとって日本はなじみのない国で、社会全体からいえば、日本語を学ぶことについて、「納得できない」という雰囲気も確実に存在しました。 にもかかわらず、改革開放後、初めて上映された社会主義以外の国の映画は日本の「君よ、憤怒の川を渡れ」で、更にその上映以降、「遠い山の呼びかけ」、「人間の証明」、「男はつらいよ」などがとんとん拍子で上映されていきます。また、「赤い疑惑」を初めとするテレビドラマも放送され、全国で大ヒットしました。その結果、高倉健、山口百恵、三浦友和、中野良子、栗原小巻などの俳優は絶大な人気を博しました。そして日常生活でも、日本製のテレビ、冷蔵庫、洗濯機といった家電はいつも品切れで、手に入れるにはコネを頼なければならないほどでした。この時代には、松下、ソニー、シャープなどのメーカーも中国に進出し大きく注目を浴びました。90年代以降、カラーテレビの普及に連れて、日本のアニメが子供を釘付けにしました。80年代以降生まれの世代は、日本のアニメを見て育った世代といっても良いほどで、その頃から日本のサブカルチャーの影響がどんどん増えていきました。それと同時に、少しでも日本語で会話しようとする流れが現われ始めた世代でもありました。 この波に応えたのが、テキスト「中日交流標準日本語」でした。1988年に人民教育出版社が日本の光村図書出版とともに編集したもので、初級、中級、上級が揃い、音声データ付のものです。生の日本語を身に着けるだけでなく、日本人の日常生活、習慣、文化などが生き生きと伝わる内容が魅力的で、広く愛されてきました。独習する社会人はもちろん、中学校、養成学校、大学に通う学生や、留学希望者などのバイブルとして用いられています。今年9月末までの30年間、販売部数は実に1500万セットを超え、読者数は1000万人を上回るといわれています。 日本語を勉強することに抵抗感があった時代から、多くの人々が日本語に愛着を覚える今日のような状況に至るまで、社会はもちろん、日本語教育もまた大きな変化を遂げてきました。今では日本は若者を中心とする幅広い層に受け入れられるようになり、日本へ意欲的に留学、観光する人も少なくありません。両国国民間の心の触れ合いは、いままでになくスムーズに進むようになっています。 チャイナビジョン、今日は改革開放40年間の日本語教育が歩んできた道のりについてお伝えしました。お相手は朱丹陽でした。