惠子师Keiko sensei 念頌孟子语录Mōshi+kōsonchū 集锦

惠子师Keiko sensei 念頌孟子语录Mōshi+kōsonchū 集锦

2022-05-10    36'25''

主播: 歡笑綠茵居士

227 0

介绍:
恵子先生とCatherineさんにそれぞれ「孟子」「公孫醜章句」の前編第二~第九節と、後編第一~第六章などの語録(日本語、英語などの解読文を含む)などの全文を以下のようにご紹介します。..『孟子』の「公孫丑の章句」にある第二章第一の語録は次のようになっている。●公孫丑が孟子に問うた。公孫丑「先生が斉の宰相になられて道を行えばこの国を覇者王者となすのも自在だというのは、いまさら怪しむに足りません。ですが、そのような重責を担うと、心が動揺したりはなさらないのですか?」孟子「いや、余は四十歳になると、心が不動のものとなった。」公孫丑「うーん、そうすると、先生は孟賁(もうほん。戦国時代の勇士)をはるかに上回っておられますね!」孟子「何ということはない。告子(こくし。孟子の同時代人の論敵。詳細不明)は余よりも前に『不動心』の境地に至った。」公孫丑「つまり『不動心』を持つのにも、方法があるというのですか!?」孟子「ある。二人の勇士の例で譬えようか。まず北宮黝(ほくきゅうよう。よくわからないが、斉の勇士らしい)が心に勇気を養うやり方は、皮膚は張り詰めてたわまず、目はいかなることにもたじろがず、自分の毛一本抜かれただけでも市場で撻(たつ。ムチ打ち刑。ほとんど半殺しにするほど厳しい刑)の刑にさらされたかのような屈辱と受け止める。褐寛博(かつかんぱく。毛布を使ったゆるゆるの上着。住所不定者の着る賤服)の輩にやられても許さないし、戦車一万台を抱える大君主にやられてもやはり許さない。そのような大君主を刺し殺すことなど、褐寛博の輩を刺し殺すぐらいにしか思わない。諸侯を何も畏れず、悪口を受けたならば必ず報復するというようなものだ。次に、孟施舎(もうししゃ。同じく勇士らしい)が心に勇気を養うやり方は、『それがしは勝てない相手にも、勝てるかのように挑みかかる。敵の強さを計算してから進み、勝算がついてから戦うのは、これ敵軍を恐れる者だ。(勇者ではない。)それがしは必ず勝とうとしているのではない。ただ敵を恐れないだけだ』という彼の言葉どおりだ。孔子の弟子で言うならば、孟施舎は曾子に似ているだろうか。そして北宮黝は子夏(しか)に似ているだろうか。この二人の勇敢は、どちらが雌雄ともつけがたい。だが孟施舎の特徴として、「気」をよく保ったことを挙げるべきだ。しかしそれよりも上がある。昔、曾子が弟子の子襄に対して、『君は勇敢を好むようだな。だが余はかつて大勇とは何かを孔先生にうかがったことがある。先生はこう言われた、自分で内省して正しくないと判断したならば、褐寛博の輩に挑発されても余は進まない。自分で内省して正しいと判断したならば、相手が「何千人もの人」であろうとも、余は進む。とな』と諭した。孟施舎は「気」をよく保って勇敢ではあったが、曾子が心に主義をよく保った勇敢にはかなわない。」。'.『孟子』の「公孫醜章句」前編第二章の第二段語録は以下の通りである.。『孟子』の「公孫醜章句」前編第二章の第二段語録は以下の通りである.。公孫丑「あえて質問します。先生の『不動心』と告子の『不動心』との内容を教えていただけませんか?」孟子「うむ。告子はこういうことを言った、言葉の意味が理解できないとき、心でなんとなく納得しようとしたりしてはいけない(論理をいいかげんに合点するな、自分が論理を読み取れていないかあるいは論理自体が成立していないかのどちらかだからだ)。また、心で納得できないとき、「気」を調整しようとしたりしてはならない。このうち、『心で納得できないとき、「気」を調整しようとしたりしてはならない』(「心に得ずとも、気に求むるなかれ」)というのは正しい。だが、『言葉の意味が理解できないとき、心でなんとなく納得しようとしたりしてはいけない』(「言に得ずとも、心に求むるなかれ」)というのはよくない。心と「気」の関係はこのようなものだ。意志は「気」を引っぱり集め、「気」は身体を統制するものだ。つまりまず意志がある。意志が十分に充実すれば、「気」は後から満ちてくる。ゆえにこう言われる、意志を確保せよ。そして「気」を損なうな。と。」公孫丑「ええっと、.『すでに意志が十分に充実すれば、「気」は後から満ちてくる』というのと、『意志を確保せよ。そして「気」を損なうな』というのは、矛盾していませんか?意志を確保していれば、「気」はしぜんと満ちているものなのではないんですか、、、?」孟子「意志が一つのことに集中すると、「気」が動いて集まってくる。逆に「気」が一つの点に集中すると、意志が動いて強まるのだ。たとえば走ってつまずくことがある。これは「気」があせったからだ。このように「気」の高まりが心を動かしてしまうものなのだ(だから、意志(言いかえれば、理性)と、気(言いかえれば、理性の外の気概・気分・情念)とは両者補完の関係にある)。」公孫丑「さらにあえて質問します。先生は、告子より何が優っておられるのでしょうか?」孟子「うむ。余は告子と違って言葉を理解することができる。余は『浩然の気』を上手に養っているからだ。」公孫丑「『浩然の気』とは、いったい何なんですか?」孟子「言葉で言うのは難しい。それは至大にして至剛、素直で曲がったところなし、それを養って害わなければ天地の間にも満ちていくような、人の中に宿る宇宙的エネルギーだ。だがこの『浩然の気』は正しい義と正しい道に配分されている。義と道に合致していないと、しぼんでしまうものだ。これは義に応じて発生するものだから、無理に集めて取ることはできない。そして自分の行いが心にやましいことがあれば、しぼんでしまう。余が告子のことを『いまだかって義というものをわかっていない』と批評するのは、告子が義を心の外にあると考えているからだ。(だから「気」を養うには)必ず義と道に沿った心を作り、義と道に沿った行動をなす必要がある。「気」だけを充実させようとしてはならない。だが「気」を養うことを心に忘れてはならない。義と道に従うことが大事で、「気」を無理に助長させてはならない。つまり、あの宋人のようなことをしてはならない。宋の国の人で、苗がなかなか成長しないのを憂えて引っぱった者がいた。作業を終えて、男は疲れ果てて家に帰ってきて、家の人に言った。「いやー、今日は疲れた!苗を引っぱって助長してやったがな。」息子が仰天して田に走っていった。苗を見たら、案の定ぜんぶ枯れていた。天下には、苗を助長することを控える者は少ない。「気」を無視して意志や理性だけを重視する者は、いわば苗のために草取りをしない者だ(つまり、告子や恵施などの論理優先主義者)。また「気」だけが大事としてこれを助長する者は、苗を引っぱる者だ(つまり、俗流老荘思想家などの理性軽視主義者)。これらは無益なだけに留まらない。かえって有害なのだ。」。'.『孟子』の「公孫醜章句」前編第二章の第三段語録は以下の通りである。●『孟子』の「公孫醜章句」前編第二章の第三段語録は以下の通りである。公孫丑「では、先生が『言葉を理解することができる』とおっしゃることの意味を教えていただけませんか。」孟子「かたよった言葉については、その話し手が隠そうと思っている真意を知ることができる。むちゃくちゃな放言については、それを言わせている話し手の心のとらわれを知ることができる。いかにも道理を外れた邪言については、それが正道からどれだけ離れているかを知ることができる。言い逃れの言葉については、それを言わせている話し手の窮境を見抜くことができる。こういったよくない言葉を発する心があるとき、その者は政道に害をなす。それによって政道に乱れがあるとき、政治の事業もまただめになる。今、再び聖人が現れても、必ず余の言葉の解釈に同意するはずだ(余は言葉の真意を理解する術を会得している)。」)'『孟子』の「公孫醜章句」前編第二章の第四段語録は以下の通りである。●『孟子』の「公孫醜章句」前編第二章の第四段語録は以下の通りである。●●公孫丑「孔子の弟子の宰我(さいが。フルネームは宰予子我。以下同じ)・子貢(しこう。端木賜子貢)は、弁論に優れていました。また冉牛(ぜんぎゅう。冉耕伯牛)・閔子<びん。‘骞’(罪),‘搴’(けん)。「閔損」・顏淵(がんえん。顏回子淵)は徳行に優れていました。そして孔子は弁論・徳行いずれも優れていましたが、自らは『余は討論は得意でない』と言いました。すると、先生はもはや聖人なのですね!」孟子「こらっ!何ということを言うか!いいか、子貢と孔子のこの問答を心にとめろ、子貢「先生は聖人ですか?」孔子「いや。余は学んで厭わず、教えて倦まないだけだ。」子貢「学んで厭わないのはすなわち『智』、教えて倦まないのはすなわち『仁』、仁で智ならば、やはり先生はすでに聖ですよ。」(『論語』述而篇に孔子と公西華との問答でほぼ似たものがある。だが、そこでは孔子は「聖」と「仁」はできないと謙遜した内容になっている)孔子ですら聖の状態にいると自認などしなかったのだ。余を聖と言うその言葉は、なんという傲慢だ。」公孫丑「、、、では、わたくし昔にこのようなことを密かに聞きました。子夏(しか。卜商子夏)・子游<しゆう。「偃言」(えんこと)>・「子張」<しちょう。顓孫師「子張」(しちょう)>は、みなそれぞれ聖人の一徳を持っていた。「冉牛」(ねんぎゅう、,姓はねんみょう冉名耕、字「は伯牛」)・「閔子」(びんし)・顏淵は、聖人の資質はあったが人間が小さかったと。あえて質問します。先生はこれらの人たちと比べて…うー、